生きてます。
先日、Xを見ていてこんなワードがあった。「出会う必要のない人たち」
なかなかのパワーワードだと思う。どうやら高学歴層の一部が、社会に出てから関わることのない人々について語った文脈らしい。この言葉は強いが、完全に間違いだとも思わない。
このポストに関してスラムの公立中出身で都会の金持ちのボンが集まる大学を出て底辺SESを経験して外資に勤務している俺の見解を提示すると、結論として「出会う必要のない人たち」とは出会う必要はない、しかし知っておくことである意味教養にしてもいいのではないか、ということである。
あくまで俺の見解ということを留保していただきたい。
まず俺は上と下を往復しているあたり越境者である。今の会社の仲間にはインターナショナルスクール育ち国立大卒親が経営者ですみたいなボンがそれなりにいる。そして彼らは上品で人の悪口も言わず性格がいいのである。(俺がブログで度々出している金持ち特有の余裕である)そんな彼らが偽装請負がはびこる底辺SESの胡散臭い心理学や自己啓発を駆使している自認賢い底辺営業たちと関わる必要があるかと言うと間違いなくないのである。
俺の親も公立出身で私立に行くことを推奨していなかった。彼らの理屈で言うと、公立はいろいろな家庭があるから社会の縮図であると。なるほどと当時は思い納得はしたのだが、やはりスラム中高はモラルが上流社会に比べて低いのである。(高校はそれなりにしっかりと義務教育課程を終えた子弟がいたので平和だったが、公立中は残念ながら悪影響を及ぼすノイズが多いというのが俺の見解) 中学なんて万引きしても罪悪感がない奴や、真面目に勉強しているやつの足を引っ張るような子供がわんさかいたぞ。
と、ここまで好き勝手書かせてもらったが傾向である。目立つ人間、いかにもなモデルがいるからそのように観測しているバイアスは当然ある。
とはいえ「出会う必要のない人たち」をめちゃめちゃに言ってるような俺であるが当然全てを全て否定はしないし否定出来ない。なぜならそれが社会でありそういう人たちのおかげで世の中が回っているのは事実であるから。ここを理解しておかないと選民思想だとか差別主義になりかねない。片足半分突っ込んでいるとは思うけれど自身を真人間として繋ぎ止めておくためには社会はそういうものと理解はしておく必要はある。だからといって彼らがいる荒波に無闇に入る必要はないが。そういう世界があると知っておくことでこうして平和に生きていられるというカタルシスの解放には良い。あんな環境の人たちと二度と関わりたくないという原動力にする分には良い。人生はある程度絶対値というか振り幅を大きく設けておいた方が面白いのかもしれない。ある意味スパイスのようなものである。
とは思うものの、俺は心のどこかでどの階層にいても異邦人のような感覚を持ったままである。
高級ホテルのラウンジの客を見ながらドリンクを飲んでいる時でも景色と同化していない自分に気づくことがある。周囲の人間が仕立てのいい服を着て先日セントーサに出張で行った時の事を語り、その相手は数年前に行ったセントーサのユニバーサルスタジオの思い出話を返す。こんなところにいる自分が滑稽に思える、似合わない。彼らと違って余裕がなければ留学も海外旅行もそんなに経験がなければ休日も活動的にはなれないから。 振る舞いをいくら小綺麗に変えたところで内側までは簡単には追いつかない。 かといって、かつての環境に戻れば、今の自分とは噛み合わない。価値観も、見ているものも変わってしまった。彼らと話しても自分が腐食する気がして距離を置いている。
俺自身が上流階級の人間でもなければ下流社会の人間でもない。大多数の中流の人間ではあるのだろうけれど下の環境にいた時の怒りの感情を知ってしまったが故にいつまでも穏やかでいられないし、中流にしては反骨精神が強すぎる気がする、適応はできても同化はできない。
いずれの社会でもある程度人と会話できる。それは今までの生き方から処世術を学んでいるから。昔から人との適切な距離感を取ることは上手い方だったが、それ故に絶妙にどこか適切な距離はそのまま埋まることがない。
もっとも、観察者気取りの冷笑家を決め込むつもりはない。
どこかで俺は同族を求めている。
俺だけではないと思う、孤独の群衆に近い。地方の公立中高を出て都内のそれなりの大学に出て大手企業に勤めている人間なんてモデルケース沢山あるだろう。そんな人間が山ほど都会にいると予想している。
君たちは俺と同じような感情を抱えているのだろうか。
だとしたらきっと、俺は人間をまだ好きになれる。